滲出する精神性――湯川隆の近年の彫刻
佐々木吉晴
(いわき市立美術館長/宇都宮美術館長/斎藤清美術館長)
長く西洋の神話画の典拠となってきたオウィディウス『変身物語』に記されるピュグマリオーンの物語は、時代を超えて多くの美術家や文学者たちの創造力を鼓舞してきた。ギリシア神話のエピソードの中でも特によく知られたひとつである。
意に叶う女性と出会うことなく独身のままでいたキュプロスの若き王ピュグマリオーンは、彫刻家としてもすぐれた技(テクネー/ラテン語ではアルス)を持っていたことから、自ら大理石で理想の女性を彫ることにした。やがて彼は彫り進めるうちに、ガラテアと名づけたその美しい彫像に激しい恋情を抱くようになる。けれどもいくら愛を訴えても彼女の石の手は固く冷たいままで、閉じられた口は言葉を返すことも吐息を漏らすこともなかった。報いられることのない想いにやつれはてるピュグマリオーン。憐れんだ愛の女神アプロディーテー(ウェヌス)がガラテアに命の息を与え、同時にクピドに矢を射ち込ませた。こうして彫像はピュグマリオーンだけを愛する生きた女性になり、彼の想いは成就された。しかしその後については、ほとんど何も語られていない。
この逸話から、女性に勝手な理想を求めて現実と向き合おうとしない男性の愚かさと傲慢さを読み取ることもできるし、特別に秀でた技ゆえ神の恩寵の息吹spirumを受けることができた(in spirum/inspiration)と見ることもできる。一途な愛こそがすべてを可能にするととらえるのもいいだろう。幾通りにも読み解くことができる、寓意に満ちた物語である。近代的に解釈するならば、いかに優れたミメーシスであっても、肉体・物質の表層的な模倣にとどまるのみでは神の恩寵は得られない。芸術たりうるには、物質に加えて精神性あるいは理念(イデア)も不可欠であるということになろうか。
わたしは湯川隆の近年の作品と対話し、何かを語ろうとするとき、ほとんどいつもこのピュグマリオーンの逸話と解釈を想起する。作家の抑制的に整えられた具象彫像の多くが、たとえモデルがいたとしても、どこかしら自身に内在するイメージが投影されたもののように思われるからであり、また同時に、ミメーシスの内側から滲出する宗教にも似た静かな精神性を強く感じさせるからである。こうしたフォルムと精神(理念)の関係性は、おそらく彼が大学時代に薫陶を受けて生涯師と仰ぎ続ける彫刻家舟越保武からの影響によるものであろう。
多くの場合、具象塑像から出発した湯川隆の彫刻は、テラコッタの塑像と木の組み合わせによって成り立つ。自然のままのフォルムを残す存在感のある大きな木の塊と素焼されたテラコッタは、単に表面的な質感だけでなく収縮率も異なっている。つまり意図する表現に至るためには、熟練の技と経験が必要となる。近年の彼の作品の精度の高さは、そうした要素が年月を積み重ねて磨き上げられ、理念と合致してきたことの証であるとわたしは考えている。湯川はオリンピックのためのクーベルタン男爵像をはじめ、このところ市内外各地から依頼を受けて彫刻を設置している。しかし、屋外のためのブロンズ像であっても以前からのテラコッタと木による作品であっても、その本質的なところは何ら変わることがない――近年の湯川隆の彫刻は、そう思わせる熟成を示している。